選ばれし者の「供物」から、生き抜くための「糧」へ
前回の記事では、神仏への供物として「粉食」が始まったとお伝えしました。驚くべきことに、以降約400年もの長きにわたって、粉食が広く国中に普及することはありませんでした。これは、粉食のルーツである「唐菓子(とうかし)」が、ひとえに神仏に捧ぐ供物として、高貴で崇高な食べ物であり続けたからに他なりません。
粉食が始まった奈良・平安期は、貴族中心の社会。政治において仏教は不可欠な存在でした。なぜなら、政策決定や権力維持に、仏教儀礼が必須だったためです。そして、この時代の仏教は、密教を中心とするものでした。
密教において、唐菓子はあくまで「祭壇に飾る高貴で崇高なもの」。儀式の後、貴族たちがそれらの供物を頂戴するという構図です。
つまりこれは「選ばれし者のための供物」であり、一般大衆の口に入るものではなかったのです。しかし、時代の流れとともに大きな変化が起こります。貴族の時代から武士の時代へ。鎌倉時代の到来です。
仏教もそれまでの「国家や貴族のため」の仏教(密教)から、個人の救済、庶民の解放といった「民衆のため」の仏教(禅宗)へと変化していきました。平安期の僧は、国家プロジェクトとして国の威信をかけ、唐へと派遣された選りすぐりのエリートたちでした。
対して、鎌倉期に大陸へと渡った僧は、大陸との国交は途絶え、国の後ろ盾を持たない一個人としての僧です。彼らが、自費で商人の貿易船に頼み込み、命を懸してまで海を渡ったのは、不屈の精神を持つ求道の僧だったからです。
混迷する時代の変化の中で、どうすれば人も自分も助かるのか。その「本物の救い」を必死に求めたのです。高尚な教えより、生き抜くためのより実践的な方法を。
ここにようやく宋へ渡った僧、「黒衣がもたらしたイノベーション」が幕を開けます。彼らが、心の救い(禅)とともにもらたしたものは、体の救い(食)でした。禅寺では、食事を作ること、食べることも、とても大事な修行とされました。
そこで、決まった食事(朝・昼)の間に、空腹を紛らわせるための軽食をとる習慣が生まれました。これを「点心」と呼びます。
点心とは、「空心(すきばら)に小食を点ずる」という意味です。この点心に用いられたのが、宋より持ち帰った数々の粉食レシピです。彼らは厳しい修行の中で、肉や魚を断つ代わりに、「生きるための糧」として粉食を日常に取り入れたのです。
うどんの致命的な欠陥と、素麺への魔改造
その中に、ついに現代にも馴染みのある形で麺が登場します。「手延べ饂飩(うどん)」です。しかし、「饂飩」とは本来、蒸しものを意味する字。実際、当時の饂飩は蒸し料理でした。製法も今とは少し違います。
塩と小麦粉を練り込んで、太い紐のように伸ばす。この時、乾燥しないように、表面にゴマ油をたっぷり塗り込んでしばらく寝かせます。熟成してグルテンが緩んだ生地を、両手でぐいっと引っ張ると、驚くほどよく伸びます。これを繰り返して、好みの太さまで細くする。途中で切ることなく、一本ものの長ーい麺をせいろに広げて蒸す。
故に、「手延べ饂飩」です。さて、この初期の饂飩には致命的な欠陥ありました。蒸し上がると、麺同士がくっついて塊となってしまうことです。しかし、当時の禅僧は言い張ります。「これは麺だ」、と。
確かに、ただ捏ねて蒸したのでは、それはただの「蒸しパン」です。麺特有の、あのモチッとした食感や気泡のない仕上がりにはなりません。なぜこんなことが起こったのでしょうか。
日本では、粒食の頃から「五穀は蒸すもの」という伝統と、「献上品・お供え物」としての格式へのこだわりがありました。故に、饂飩も当初、丁寧に丹精込めて蒸していた。ところが、出来上がりはというと、生地を伸ばすために必要な塩気は抜けず、恐ろしく塩辛くて、人間が食べるには不向きな「塊」です。
神聖なる食べ物へのこだわりが邪魔をして、なかなか「茹で」という調理法を受け入れることができなかったのでしょう。しかし、一度「形式」から「実利」へと切り替わると、もう後には戻りません。茹でれば、麺は麺本来の形を保ち、塩味は程よく抜け、ツルツルモチモチの新食感が楽しめます。
そして、茹でを受け入れたことで、饂飩に実に日本人らしい魔改造が施されます。極限まで細く延ばした饂飩、「白き糸〜素麺」の誕生です。「茹でて塩が抜けるなら、もっと塩を使って、もっと細く延ばせるじゃないか!」という日本の職人魂剥き出しの発想です。
なんと素麺もその歴史は古く、鎌倉時代から続いていたとは驚きです。中でも私は、その細さと腰の強さから、長崎のある手延べ素麺が大好きです。

回転する石と黄金の麦。黒衣が繋いだイノベーション
さて、こうした数々の点心は、寺を通して民衆にも振る舞われるようになり、粉食が一気に時代の最先端へと躍り出ます。ここで一つの疑問が。これほど大量の小麦粉を、一体どうやって用意したのか?ここで、それまで杵と臼の「叩く」が主役の時代から、「回転する」石臼が主役となります。

実は、石臼そのものは飛鳥時代の610年頃に伝わっています。しかし、これは墨や絵具といった材料加工に用いられたもので、食品加工用ではありませんでした。当初、最先端の技術であった石臼は、巨大(1tほどあった)で国レベルでしか保有できないものでした。また、その使用には莫大なコストと労力が必要で、需要もそれほどありませんでした。ですから、この優れた機器も、日本では600年の長きにわたり、普及も発達しませんでした。
いつの時代も、最先端技術はやたらと大きいものから始まるのが、とても興味深いことです。そして鎌倉期になると、粉食ブームという巨大な需要が生まれます。粉食には、よりきめの細かい粉が必要です。
また、効率よく油を搾り取るにも、胡麻を石臼で細かくして搾れば、取れる量は跳ね上がります。この巨大な需要が、巨大だった石臼を小型化させ、より身近な道具へと変え、食品加工用という新たな活用法が生まれたのです。
そしてもう一つ。鎌倉期になると、農法に新たな技術が確立されます。それは畜糞、人糞などの有機質を肥料とする方法です。
それまで、無肥料と言えるような自然農法から有機肥料を使うことで、作物の収量が劇的に上がるようになりました。また、それまで米が育たない冬の間は、田んぼを遊ばせておくことが多かったのですが、施肥することで米の後に麦を作る「二毛作」が可能になりました。
そして、粉食ブームの到来です。それまで、貢物としてだけに作られた米の後に、今度は換金作物としてたくさんの麦を作れる下地ができました。つまり農家にとって、それまで実が固くて不味くて、大して価値もなかった麦が、頑張って作れば頑張った分だけ収入に繋がるようになったということです。

これらすべてが、黒衣のもたらしたイノベーションです。つまり、イノベーションとは、単なる技術革新ではなく、ことの新旧や、食・農業・工業など分野の垣根を越えて、さまざまを併せ以って新たなものを作る、ということです。
こうして、粉食が広まると、蕎麦もようやく粉にされ、蒸しものとして食べられるようになります。しかしそれは、麺にはほど遠い、蕎麦掻きや蕎麦団子としてです。
小麦は粉食の主役となりましたが、この頃の蕎麦はあまり見向きもされない、ただの脇役の一つにしか過ぎませんでした。まだまだ、蕎麦のルーツを探す旅は続きます。
今日もありがとうございます。
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